第七章 近世きんせい寛永文化かんえいぶんか

第一節 近世きんせい歴史的背景れきしてきはいけい

1600ねんに、日本全国にほんぜんこく大名だいみょうひがし西にしかれて、関ヶ原せきがはらたたかいいがこった。徳川家康とくがわいえやすはこのたたかいいでち、全国ぜんこく支配しはいするようになった。1603ねんに、家康いえやす天皇てんのうから征夷大将軍せいいたいしょうぐんくらいけられて、関東地方かんとうちほう江戸えどいま東京とうきょう)に幕府ばくふひらいた。徳川氏とくがわし政権せいけん江戸幕府えどばくふという。このときからやく260年間ねんかん江戸時代えどじだいつづいた。

徳川家康とくがわいえやす大名だいみょうたちに領地りょうちあたえて、支配しはいまかせた。大名だいみょう領地りょうちはんという。しかし、大切たいせつ場所ばしょたとえばおおきいみなと都市とし鉱山こうざんなどは幕府ばくふ領地りょうちにして、直接支配ちょくせつしはいした。このように、将軍しょうぐん大名だいみょうがそれぞれ土地とち民衆みんしゅう支配しはいする政治体制せいじたいせいができた。この支配体制しはいたいせい幕藩体制ばくはんたいせいという。

幕府ばくふ大名だいみょうたちを統制とうせいするために、参勤交代さんきんこうたい制度せいど制定せいていした。参勤交代さんきんこうたいとは、大名だいみょう一年いちねんおきに江戸えど領国りょうごくむことで、妻子さいし人質ひとじちとして江戸えどかれた。そのため、江戸えど中心ちゅうしんとして交通こうつう発達はったつして、東海道とうかいどうなどにはたびをすることができるように宿場しゅくばつくった。治安ちあんまもるために、交通こうつう大切たいせつなところには関所せきしょなどをいた。参勤交代さんきんこうたい交通こうつう利便りべんをもたらしたが、大名だいみょうたちは莫大ばくだい費用ひようをかけて参勤さんきんしたため、はん財政ざいせいくるしめ、商人しょうにんからの借金しゃっきんえた。

江戸時代えどじだいには、士農工商しのうこうしょうというきびしい身分制度みぶんせいどがあった。士農工商しのうこうしょうはつまり武士ぶし農民のうみん職人しょくにん商人しょうにんすなわ町人ちょうにん)というよっつの身分みぶんである。当時とうじ人口じんこうやく3000万人まんにんだったが、人口じんこうの6〜10パーセントが武士ぶし、80パーセントが農民のうみん、6〜7パーセントが町人ちょうにんだった。そのしたにさらに身分みぶんひくい「えた」などもいた。各身分かくみぶんともおや身分みぶん世襲せしゅうさせられ、おな身分みぶん

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学習ポイント
  1. 近世きんせい歴史的背景れきしてきはいけい
  2. 近世初期きんせいしょき寛永期文化かんえいきぶんか
  3. 近世きんせい生活文化せいかつぶんか

うちにもこまかい格差かくさもうけられた。このように、えることのできない身分制度みぶんせいどがあったので、江戸幕府えどばくふ支配しはいながつづいた。

近世きんせいでは、武士ぶし支配階級しはいかいきゅうだったが、農民のうみん武士ぶしつぎ身分みぶんだった。職人しょくにん農民のうみんつぎ身分みぶんで、商人しょうにん一番いちばん身分みぶんひくいものだった。このような身分制度みぶんせいどささえたイデオロギーは、儒学じゅがくとく朱子学しゅしがくだった。朱子学しゅしがくは、君臣くんしん父子ふし区別くべつをわきまえ、上下じょうげ秩序ちつじょおもんじたので、武士ぶし支配体制しはいたいせい確保かくほして、士農工商しのうこうしょう身分秩序みぶんちつじょ維持いじすることができた。そのために、近世きんせい身分制度みぶんせいどささえられ、幕府ばくふ支配しはいながつづいたとえる。

幕府ばくふ封建的ほうけんてき支配秩序しはいちつじょ維持いじするために、鎖国政策さこくせいさく確立かくりつしていた。1549(天文てんぶん18)ねんに、イエズスかい宣教師せんきょうしフランシスコ・ザビエルはキリストきょうつたえるために来日らいにちした。そのとき、ヨーロッパの学問がくもんすこしずつ日本にほんはいってきた。幕府ばくふはじめのうち、ヨーロッパじん貿易ぼうえきをしていた。しかし、キリストきょう人間平等にんげんびょうどう思想しそうが、幕府ばくふ支配秩序しはいちつじょ否定ひていすることにもなったので、幕府ばくふはキリストきょう禁止きんしし、キリシタンをきびしく弾圧だんあつした。また、日本人にほんじん海外貿易かいがいぼうえき次第しだい制限せいげんするようになり、鎖国政策さこくせいさく二百年にひゃくねん以上もつづいた。だから、経済けいざい日本国内にほんこくないだけで完結かんけつするようになり、はん城下町じょうかまち急速きゅうそく発達はったつして、経済けいざい目覚めざしく発展はってんしていた。

江戸時代えどじだいには、各地かくちにたくさんの都市としがあったが、なかでも江戸えど大坂おおさか京都きょうとは、経済的けいざいてきにも文化的ぶんかてきにも当時とうじ日本にほん代表だいひょうする近世都市きんせいとしだった。当時とうじ人々ひとびとは、江戸えど大坂おおさか京都きょうとのことを「三都さんと」としょうした。近世きんせいでは、江戸えど大阪おおさか京都きょうと三都さんとが、日本にほん経済けいざいうごかしていたともえよう。

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近世きんせい江戸えどは、全国ぜんこく大名だいみょうあつまる政治せいじ経済けいざい都市としだった。江戸えどには、幕府ばくふ諸施設しょしせつ全国ぜんこく大名だいみょう屋敷やしきをはじめ、おおくの御家人ごけにん屋敷やしき集中しゅうちゅうした。また、参勤交代さんきんこうたいせいによって、諸大名しょだいみょうおおくの武士ぶしなども江戸えど生活せいかつしていた。近世きんせい身分制みぶんせいでは、身分みぶん居住地きょじゅうちがほぼ一致いっちしているので、各々おのおの居住きょじゅうする地区ちくさだめられて、城下町じょうかまちには武士ぶし商人しょうにん職人しょくにん集住しゅうじゅうさせられていた。江戸えど町人地ちょうにんちには、様々さまざま商人しょうにん職人しょくにんあつまり、江戸えど日本最大にほんさいだい消費都市しょうひとしとなった。

江戸えど政治せいじ中心地ちゅうしんちとなることで、政治的せいじてききゅう繁栄はんえいするようになった。しかし、上方かみがた京都きょうと大坂おおさか中世ちゅうせい以来の経済発展けいざいはってん伝統でんとうになって、西日本にしにほん経済けいざい文化ぶんか都市としだった。当時とうじ、どのはん大坂おおさか年貢米ねんぐまいなどをり、かねえていた。また、全国ぜんこく商人しょうにん大坂おおさか商品しょうひんおくって、江戸えどをはじめ全国ぜんこく出荷しゅっかした。だから、大阪おおさかは「天下てんか台所だいどころ」とわれて、はん年貢米ねんぐまい全国ぜんこく物資ぶっしあつまるあたらしい経済都市けいざいとしとなった。17世紀せいき後半こうはんになると、大阪おおさかはさらに京都きょうとをしのいで、全国経済ぜんこくけいざい中心地ちゅうしんちとなった。

大坂おおさか西日本にしにほん経済けいざい中心地ちゅうしんちだったが、京都きょうとふる歴史れきしのある文化ぶんか都市としだった。京都きょうとには古代こだいより天皇てんのう居住きょじゅうし、寺院じいん本寺ほんじ神社じんじゃなどが数多かずおお存在そんざいした。近世きんせいでは、幕府ばくふはキリストきょう禁止きんしするとともに、仏教ぶっきょう神道しんとう統制とうせいした。幕府ばくふ全国ぜんこく寺院じいん神社じんじゃ支配しはいするために、京都きょうと重視じゅうしした。また、京都きょうとには呉服屋ごふくや両替商りょうがえしょうなどの本拠地ほんきょちおおくあり、西陣織にしじんおり京染きょうぞめ京焼きょうやきなどの手工業生産しゅこうぎょうせいさん発達はったつした。そのために、京都きょうと西日本にしにほん経済けいざい文化ぶんか都市としだった。

江戸時代えどじだいのはじめは、こめむぎまめなどを中心ちゅうしんとした経済けいざいだった。またぬの砂糖さとうしおあぶらなどをつく手工業しゅこうぎょうや、鉱業こうぎょうなども発達はったつした。そのために、商業しょうぎょうさかんになって、流通経済りゅうつうけいざい発達はったつした。このように、流通経済りゅうつうけいざい関係かんけいする町人ちょうにんがだんだんちからつようになり、その経済力けいざいりょく文化ぶんかめんにもあらわわれた。当時とうじ三都さんと城下町じょうかまち町人ちょうにんたちは、いろいろなあたらしい文化ぶんかつくした。町人文化ちょうにんぶんかというあたらしい文化ぶんかさかえたのも、江戸時代えどじだい前半ぜんはん特徴とくちょうである。

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第二節 近世初期きんせいしょき文化ぶんか

近世きんせい文化ぶんかは、江戸時代えどじだい初期しょき寛永期かんえいき文化ぶんか中期ちゅうき元禄文化げんろくぶんか後期こうき化政文化かせいぶんか幕末ばくまつ嘉永文化かえいぶんかよっつに区別くべつすることができる。まず近世初期きんせいしょき寛永期文化かんえいきぶんかからてみよう。

近世初期きんせいしょき文化ぶんかは、寛永期文化かんえいきぶんかという。寛永期文化かんえいきぶんか桃山文化ももやまぶんか伝統でんとうぎながら、17世紀せいき前半ぜんはん寛永期かんえいき前後ぜんごになると、幕藩体制ばくはんたいせい安定あんていするにつれて、学問がくもん文芸ぶんげい建築けんちく美術びじゅつ工芸こうげいなどに、つぎのようなあたらしい傾向けいこうしめはじめた。

寛永期文化かんえいきぶんか

(一)学問がくもん文芸ぶんげい

江戸時代えどじだいになると、室町時代むろまちじだい五山ござん禅僧ぜんそうまなんでいた朱子学しゅしがく中心ちゅうしんに、儒学じゅがくさかんになった。近世きんせい初期しょきには、京都きょうと相国寺しょうこくじ禅僧ぜんそうだった藤原惺窩ふじわらせいか(1561-1619)が、還俗げんぞくして京学きょうがくという朱子学しゅしがく一派いっぱひらいた。その弟子でし林羅山はやしらざん(1583-1657)は徳川家康とくがわいえやすもちいられ、羅山らざん子孫しそん代々だいだい儒者じゅしゃとして幕府ばくふつかえた。林羅山はやしらざん幕府ばくふめいけて、その林鵞峰はやしがほう(1618-80)といっしょに『本朝通鑑ほんちょうつがん』を編纂へんさんした。鵞峰がほう林鳳岡はやしほうこう(1644-1732)は、大学頭だいがくのかみにんじられて、学問がくもん教育きょういくになった。

江戸時代えどじだい寛永期かんえいきごろは、文芸ぶんげいでは仮名草子かなぞうし俳諧はいかいさかんであった。仮名草子かなぞうしは「仮名かなかれたほん」という意味いみで、教訓きょうくん道徳どうとくしゅとした文学ぶんがくである。江戸時代えどじだいはいると、室町時代むろまちじだい以来のお伽草子おとぎぞうしながれをけて、仮名草子かなぞうしあらわわれた。それから室町時代後期むろまちじだいこうき以来の連歌れんがから俳諧はいかい独立どくりつして、松永貞徳まつながていとく(1571-1653)の貞門俳諧ていもんはいかい、さらに西山宗因にしやまそういん(1605-82)の談林俳諧だんりんはいかいまれた。寛永期かんえいきに、貞門俳諧ていもんはいかい談林俳諧だんりんはいかい流行りゅうこうして、あたらたな民衆文化みんしゅうぶんか基盤きばんつくられた。これらの俳諧はいかいは、元禄時代げんろくじだい井原西鶴いはらさいかく松尾芭蕉まつおばしょうにも影響えいきょうあたえた。

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(二)建築けんちく

近世きんせいでは、霊廟建築れいびょうけんちくさかんになった。寛永かんえい年間に、徳川家康とくがわいえやすまつ日光にっこう東照宮とうしょうぐうつくられた。この神社建築じんじゃけんちくに、桃山文化ももやまぶんか影響えいきょうけた豪華ごうか装飾そうしょくほどこされた。また、権現造ごんげんづくりりという様式ようしきれられた。日光東照宮にっこうとうしょうぐう霊廟建築れいびょうけんちく代表的だいひょうてきなものである。それから書院造しょいんづくり茶室建築ちゃしつけんちくれた数寄屋造すきやづくりという様式ようしきまれた。京都きょうと桂離宮かつらりきゅう修学院離宮しゅうがくいんりきゅう書院しょいんは、その代表的建築だいひょうてきけんちくである。

(三)美術びじゅつ工芸こうげい

寛永期かんえいきごろに、日本にほん芸道げいどうおおくが成立せいりつした。それらはさらに発展はってんして、元禄時代げんろくじだい美術びじゅつ工芸こうげい創出そうしゅつしていくことになる。絵画かいがでは狩野派かのうはから狩野探幽かのうたんゆう(1602-74)がて、幕府ばくふ御用絵師ごようえしとして活躍かつやくした。探幽たんゆうは「大徳寺だいとくじ方丈ほうじょう襖絵ふすまえ」などをき、霊廟れいびょう装飾そうしょく江戸城えどじょうなどの障壁画しょうへきが制作せいさくした。また、京都きょうとでは俵屋宗達たわらやそうたつ(?-1643)があらわわれ、土佐派とさは画法がほうをもとに「風神雷神図屏風ふうじんらいじんずびょうぶ」をき、装飾画そうしょくがあたらしい様式ようしきした。宗達そうたつ装飾画そうしょくがは、元禄時代げんろくじだい尾形光琳おがたこうりん琳派りんぱ先駆せんくけとなった。それから本阿弥光悦ほんあみこうえつ(1558-1637)は『後選和歌集ごせんわかしゅう』のうた歌意かい意匠いしょうして、「舟橋蒔絵硯箱ふなばしまきえすずりばこ」をつくり、蒔絵まきえすぐれた作品さくひんした。光悦こうえつはまた陶芸とうげいにもゆたかな才能さいのう発揮はっきした。

1592(文禄ぶんろく元)ねんと1597(慶長けいちょう2)ねん文禄ぶんろくえき慶長けいちょうえきさいに、朝鮮ちょうせんからおおくの陶工とうこう連行れんこうされてきた。れてられた朝鮮人ちょうせんじん陶工とうこうによって、日本にほんでも製陶せいとうさかんになり、各地かくち陶器とうき生産せいさんはじめられた。佐賀藩さがはん有田ありた中心ちゅうしんとする有田焼ありたやき薩摩藩さつまはん薩摩焼さつまやき山口県やまぐちけんはぎさんする萩焼はぎやき福岡県産ふくおかけんさん高取焼たかとりやきなどが有名ゆうめいである。陶器とうき生産せいさんさかんになったため、製陶せいとう陶芸とうげいへと発展はってんした。有田ありた陶工とうこう酒井田柿右衛門さかいだかきえもんは、有田焼ありたやき上絵付法うわえつけほうほどこして赤絵あかえ完成かんせいさせた。また、本阿弥光

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えつは、低火度ていかど手作てづく楽焼らくやき茶碗ちゃわん素晴すばららしい作品さくひんのこした。これらの陶磁器とうじき今日きょうでも世界的せかいてき有名ゆうめいである。

第三節 近世きんせい生活文化せいかつぶんか

江戸時代えどじだいはいると、織物業おりものぎょう製紙業せいしぎょう醸造業じょうぞうぎょうなどが発達はったつして、当時とうじ人々ひとびとかた生活文化せいかつぶんかおおきな影響えいきょうおよぼした。都市としでは職人しょくにん農村のうそんでは百姓ひゃくしょうによって、多様たよう手工業生産しゅこうぎょうせいさんられた。その代表だいひょうあさ木綿もめんきぬなどの織物業おりものぎょうである。戦国時代末期せんごくじだいまっきに、棉作めんさく朝鮮ちょうせんから日本にほんつたえられ、棉花めんか栽培さいばい綿布めんぷ生産せいさんはじまった。そのときから木綿もめん従来じゅうらいあさとともに、庶民しょみん代表的だいひょうてき衣料いりょうとして普及ふきゅうした。江戸初期えどしょきには、各地かくち多種多様たしゅたよう織物おりもの製造業せいぞうぎょうさかんになり、そのなかでも河内かわち木綿もめん近江おうみあさ京都きょうときぬ奈良ならさらしなどの織物おりものられている。

織物業おりものぎょうのほか、印刷術いんさつじゅつかみ生産せいさんさけ醤油しょうゆ醸造業じょうぞうぎょうなども発達はったつした。近世初期きんせいしょきに、朝鮮ちょうせんから木活字もくかつじ印刷法いんさつほうつたえられた。慶長けいちょう年間、後陽成天皇ごようぜいてんのう勅命ちょくめいによって、慶長勅版けいちょうちょくはん刊行かんこうされた。それ以来、活字印刷術かつじいんさつじゅつさかんになった。そして和紙わしは、こうぞおも原料げんりょうとする流し漉きながしすき技術ぎじゅつ普及ふきゅうによって、生産地せいさんち全国ぜんこくひろがった。和紙わし生産せいさんさかんになったため、安価あんかかみ庶民しょみんにまで大量たいりょう普及ふきゅうし、学問がくもん文化ぶんか発達はったつおおきく貢献こうけんした。このころおおくの古文書こもんじょ出版しゅっぱんされ、古文書こもんじょ情報じょうほう伝達でんたつにもやくった。

近世きんせいでは、さけ京都きょうと大坂おおさか奈良なら伊丹いたみなどの名酒めいしゅがあり、なかでも京都府きょうとふ伏見ふしみ兵庫県ひょうごけんなださけ著名ちょめいである。醤油しょうゆさかい大坂おおさかつくられて各地かくち出荷しゅっかされていたが、千葉県ちばけん野田のだ銚子ちょうし醤油しょうゆなどが有名ゆうめいだった。当時とうじ江戸えど大坂おおさか京都きょうとなどの大都市だいとしには、生鮮食品せいせんしょくひん中心ちゅうしんとする大市場おおいちば常設じょうせつされていた。そのなかでも、江戸えど魚市場さかなしじょう魚河岸うおがし」、江戸神田えどかんだ青物市場あおものいちば大坂おおさか魚市場さかなしじょう雑喉場ざこば」、大坂天満おおさかてんま青物市場あおものいちばなどは全国的ぜんこくてきられた大市場おおいちばであった。この時代じだいに、現在げんざい日本料理にほんりょうりばれている食物たべもの出来上できあがっていった。刺身さしみ天婦羅てんぷら

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やき田楽でんがくから、金平きんびらごぼう・目刺めざし・けんちんじる・でんぶ・ぬかみそけなどの家庭かてい惣菜そうざい的なものまで、すべてできあっている。

経済けいざい急速きゅうそく発展はってんするとともに、食生活しょくせいかつ多様たようになり、あじたのしみとする習慣しゅうかんもまた一般化いっぱんかした。さけ煙草たばこちゃは、様々さまざま銘柄めいがら商品しょうひんができ、人々ひとびとがその生活せいかつおうじてたしなめるようになった。一方いっぽう砂糖さとう普及ふきゅうしたことにより、各地かくちでいろいろな菓子かしつくられるようになった。もち、まんじゅう、あめ、金鍔きんつばなどの駄菓子だがしから、高級こうきゅう羊羹ようかんなどもあらわわれている。みちには有名ゆうめい菓子屋かしやあらわわれ、茶店ちゃみせでも駄菓子だがしなどがならべられるようになった。

参勤交代さんきんこうたいによって、おおくの武士ぶし江戸えど生活せいかつしていた。江戸えどにいた武士ぶしは、ほとんどが単身赴任たんしんふにんで、六月ろくがつ一度いちど出勤しゅっきん通常つうじょうだった。そのため、屋台やたい一膳飯屋いちぜんめしやのような食事しょくじができるみせ出来できた。また、細長ほそなが戸棚とだなかつぎ、夜中よなかまで営業えいぎょうした蕎麦屋そばや数多かずおおくあった。このころ、町内ちょうない人々ひとびと雑談ざつだんにふける髪結床かみゆいどこが、庶民しょみん社交場しゃこうじょうとなっていた。また、銭湯せんとうには座敷ざしきもうけれ、庶民しょみんいこいの社交場しゃこうじょうとしても利用りようされた。町中まちなかはとてもにぎやかで、喧嘩けんかおおかった。江戸えどまちはまた度々たびたび火災かさいい、火事かじおおかった。だから、火事かじ喧嘩けんか江戸えどはなわれている。

文責ぶんせき徐翔生じょしょうせい

確認かくにんしてみよう】

一、つぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

  1. 近世きんせい三都さんととして、不適切ふてきせつなものをひとえらべ。
    a. 大坂おおさか b. 京都きょうと c. 奈良なら
  2. 幕府ばくふめいけて、『本朝通鑑ほんちょうつがん』を編纂へんさんしたのはだれか。
    a. 藤原惺窩ふじわらせいか b. 林羅山はやしらざん c. 山鹿素行やまがそこう
  3. 寛永期文化かんえいきぶんか関係かんけいしない項目こうもくひとえらべ。
    a. 日光東照宮にっこうとうしょうぐう b. 京都桂離宮きょうとかつらりきゅう c. 金閣寺きんかくじ

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  1. 幕府ばくふ御用絵師ごようえしで、「大徳寺だいとくじ方丈ほうじょう襖絵ふすまえ」をいたのはだれか。
    a. 狩野探幽かのうたんゆう b. 喜多川歌麿きたがわうたまろ c. 葛飾北斎かつしかほくさい
  2. 寛永期文化かんえいきぶんか代表だいひょうする蒔絵まきえ舟橋蒔絵硯箱ふなばしまきえすずりばこ」をつくったのはだれか。
    a. 俵屋宗達たわらやそうたつ b. 本阿弥光悦ほんあみこうえつ c. 尾形光琳おがたこうりん

二、つぎ文章ぶんしょうみ、空欄くうらん適切てきせつ言葉ことばれなさい。

  1. 近世初期きんせいしょき文化ぶんかは(      )という。
  2. 貞門俳諧ていもんはいかい創始そうししたのは(      )である。
  3. 談林俳諧だんりんはいかい創始そうししたのは(      )である。
  4. 江戸時代えどじだい寛永期かんえいきに、日光東照宮にっこうとうしょうぐうつくられたが、その建築様式けんちくようしきは(      )という。
  5. 江戸時代えどじだい寛永期かんえいきに、各地かくち陶器とうき生産せいさんはじめられたが、佐賀藩さがはんさんする陶器とうきは(      )という。

三、つぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

  1. 寛永期かんえいき文化ぶんかについてべよ。
  2. 三都さんとについてべよ。
  3. 本朝通鑑ほんちょうつがん」についてべよ。
  4. 仮名草子かなぞうしについてべよ。
  5. 権現造ごんげんづくりについてべよ。

参考文献さんこうぶんけん

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